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子どもはからだを動かしていない? ~後編~

——子どものからだから社会を読み解く

日本体育大学子どものからだ研究所 所長・野井真吾さんに聞く

こども定点2024」の調査結果をもとに、研究員が注目したキーワードから、数字の奥に見える子どもたちの今を深掘りします。「子どもはからだを動かしていない?」(後編)では、前編にひきつづき日本体育大学子どものからだ研究所 所長の野井真吾さんへのインタビューをとおして、子どものからだから社会を読み解きます。

〈こども定点2024〉https://kodomoken.hakuhodofoundation.or.jp/teiten2024/

子どもの「体力」は落ちていない

「こども定点調査2024」の結果から、子どもがからだを動かしていないのではないかと感じたもう一つの理由が、「よくするスポーツ」の項目で「特にない」の回答が36.9%と最も多くなっていた点です。先生はこの結果をどうご覧になりますか。

僕は、からだを動かす手段がスポーツである必然もない、とも思っています。これは僕独自の考え方かもしれませんが、遊びをとおしてからだを動かすということが大事だと思うんです。

ちなみに、子どもたちの「体力」は落ちていません。文科省でおこなっている体力テストの結果は、1998年以降むしろ上昇傾向にあります。小学生から高校生まで、体力はゆるやかに上がっているんですよ。

え?!それは意外なデータです。もう少し詳しく教えてください。

我々の研究領域では、「体力」と「運動能力」は分けて見るんです。

「体力」とは、辞書的には「身体的な生活力・生存力」と定義されます。さらに、体力には分類があって、行動するために必要な「行動体力」と、外界からの刺激に対する防衛に必要な「防衛体力」に分けられ、これらは精神的要素の影響も受けます。体力のなかに、精神まで組み込まれているんですね。一方で「運動能力」は、身体的な要素の行動体力と精神的要素が組み合わさって、運動の場面で発揮されることです。

たとえば、垂直跳びというのは、瞬発力を単純に取り出してみた測定項目ですから、測っているのは体力です。しかし、走っていってどこまで飛べるかという走り幅跳びになると、そこには瞬発力だけではなく、柔軟性、協調性、筋力も関わってきます。体力の複合、つまり、運動の場面で発揮できた能力が運動能力ということになります。

ですから、「体力テスト」を見るとき、種目によっては低下しているものもあります。たとえばボール投げは、70年代からポイントが減少しています。昭和の子どもたちにとって遊ぶといえば原っぱで野球だったことを考えれば、ボールを投げる機会が以前より減った現代では、これは当然ともいえますね。あとは、50メートル走や握力も下がっています。

でも、下がっているといえばそのくらいで、その他の種目はゆるやかに上昇している。これは何を示しているかというと、体力はあるけれど、それを運動の場面で発揮できてないということです。ここに、男女差や学年差はありません。

からだを動かしていないことよりも、総合的な体力という視点で見る必要があるのですね。

よく「うちの子は体力がなくて」という親御さんからの懸念で、学校はマラソンや縄跳びをさせようとしますが、僕は体力がないからといって、筋力や持久力などの行動体力をつけてもあまり意味がないと思っているんですよ。

むしろ懸念されるのは、防衛体力や精神的要素のほう。そもそも、元気がないときに筋力なんか発揮できません。本質的には、からだと心を分けてしまっていることに課題があるのではないかと思うんです。

だから僕は、「体力づくり」という表現を「からだづくり」に変えたらどうかと思っています。「からだ」は、いろんな要素から成り立っているものです。固定概念を取っ払って「からだづくり」という視点を持ったほうが、子どもの発育の実態に近づける気がします。

子どもにとって「遊び」は学び

体力は伸びているのに運動能力は低下しているという背景には、どういったことが考えられるでしょうか?

放課後の過ごし方や遊び方を見てもそうですが、今は、大人が用意している枠組みのなかでなんでもおこなわれますよね。子どもにとって、遊びがルール化されすぎているんです。

昭和時代に私たちがしていた野球は、みんなで集まってジャンケンしてチームを割って、空き地でやるものでした。たとえば、いつもの空き地に行ってみたらライト側にドラム缶があったとします。そうするとライト側に打つと危ないから打球がライト方向に飛んだらワンアウトというルールをその場で考える。そうやって工夫しながら野球をしていました。遊びひとつにしても、ものすごく頭を使ったんです。

ところが、今はクラブに入部してスポーツとしてやる。そこでは、試合に勝つためにチームがあり、ルールがあります。整備されたグラウンドでおこなうので、ライト側にドラム缶があるとか、トラックが停まっていることはまずありません。

でも遊びでは、今ある環境のなかで、みんなで野球をやるためにはどうしたらいいか考えます。それが身体の機能にも大きな関わりのある脳の前頭葉を育てるんです。前頭葉は、大脳の一部で主に興奮と抑制のコントロールを担っているところです。すでにいくつかの研究結果で、前頭葉にとって遊びをしているときのワクワクドキドキ感が重要であることがわかってきています。

ワクワクドキドキする遊びが、子どもの成長全般に関わっているのですね。

子どもは遊び、特に外遊びでできているとさえいえます。遊びは、学びなんですよね。複合的な力である「運動能力」の低下は、経験不足だと考えたほうがいいです。体を動かすことが特定の部活動に絞られてしまって、さまざまな経験をする場、遊びの場が奪われてしまっているのが現代だと思います。

もちろん、スポーツのすべてを否定しているわけではありません。けれど、スポーツはそもそも、大人が創り出した文化です。ですから大人がワクワクドキドキできるルールに落とし込まれている。ワクワクドキドキという刺激は前頭葉にとって大切ですが、大人のためのスポーツに子どもを当てはめることが、子どもの発達にとっていいかどうかは疑問です。

赤ちゃんであれば、いないいないばあで笑うし、さらに成長すると、おままごとや電車ごっこ、鬼ごっこ、空き地での野球のようなスポーツ遊びになる。私は、小学生ぐらいまではこれで十分かなと思っているんですよ。

ただ、これだけ管理された社会ですから、無目的な遊びがなくなっているのと同時に、子どもたち自身も遊びをつくり出せなくなっています。最初は、大人からのちょっとした「ちょっかい」が必要でしょう。「一緒にやってみる?」と声をかけるとか、誰かがファシリテートしたりすると、変わってくるかもしれません。大人も一緒に楽しめばいいんですよね。

からだを通して社会と向き合う

お話をうかがっていると、子どものからだをとおして、今の社会が抱える問題が見えてくるように感じます。

本当にそうです。僕が子どものからだにこだわっているのはそうした意味もあります。逆にいうと、子どもはデータという形でSOSをたくさん出してくれていると思うんですよね。

たとえば、いじめ、暴力、不登校、虐待など、今の子どもを取り巻く社会問題。そうしたプレッシャーについて、子どもたちは直接的には言わないけれど、からだをとおしてちゃんと数字で表してくれているんだと思います。統計を見ると、いじめも、暴力も、不登校も、どれも過去最多で、やはりこれは異常です。

子どもたちは、すべてを言葉にできるわけではありません。その声なき声を、どう想像力を働かせて読み取るか、そこにこの研究所の役割や存在意義があるのかなと思っています。

私たちはつい言語化されたものだけを見がちですが、実はからだを使って表現される非言語的な信号を認識することが重要ですね。

何かおかしいぞって思う、この「何か」というのは言語化できていません。けれど、その「おかしいぞ」という感覚が人間にはあって、それによって僕たちは進化してきたはずなんです。

言葉にできないものは意味がない、といった風潮もありますが、逆だと思います。言葉にできないもののほうが先なんです。それを、あとから言語化していくという順番です。

調査でもアンケートでも、僕たちが「実感」にこだわるのは、そういう理由もあります。雰囲気みたいなものを先生たちからすくいあげ、そういう状態の子どもがいるとしたらからだにどういう変化が起きているのか、説明できないものをどんどん集め、それをどう想像力を持って読み解くか。そのことのほうがずっと大事な気がしますね。

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