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やさしさの時代の親子関係 ~後編~

教育者/作家・鳥羽和久さんに聞く

こども定点2025」の調査結果をもとに、気になるデータや、結果から感じたこと、考えたことについてさまざまな人にお話をうかがい、数字の奥に見える子どもたちの今を深掘りします。福岡県福岡市で学習塾「唐人町寺子屋」を主宰し、20年以上にわたり子どもたちと向き合ってきた教育者/作家の鳥羽和久さんへのインタビュー後編です。こども定点では「いまの自分を言葉で表すと?」「あなたはどんな人になりたい?」という質問があり、多くの子どもたちが「やさしい」と答えています。今、子どもたちにとって最も重視されているともいえる「やさしさ」という価値観について、その背景とともに掘り下げます。(前編はこちら

もう大人と、まだ子ども、そのあいだで

前編でも、子どもの自己肯定感の話が出ました。日本の子どもたちの自己肯定感の低さが問題だと語られることがありますが、ここについてもう少しお話を聞かせてください。

自己肯定感が低いというよりも、自分を受け入れるときの作法が変わってきている、と考えたほうがいいのかもしれません。子どもが自分をどう評価し、どう他者に見せるかは、その時代に何が望ましいとされているかを敏感に反映します。

「べつにこれでいいんじゃない」といった強さというか、達観のようなものは、10年前の子どもより今の子のほうが持っている気がしますね。以前ほど、自分を低く見せることや謙虚に振る舞うことに価値が置かれなくなっていますし、建前よりも本音を大切にする流れもあると思います。自分の感情や意見を表現するハードルが下がっていること自体は、いいことです。

ですから、日本の子どもは自己肯定感が低い、とひとつの尺度で捉えるだけでは、現在の子どもたちが身につけている強さを見落としてしまうかもしれません。同時に、どこまで自分を出していいのか、他者との間でどう調整していくのかについては、まだ揺れているところもあるでしょう。

揺れているというのは、どういうことでしょう?

自分の感情や意見を大切にしつつ、他者との関係のなかで、それをどのように表現するかがまだ定まっていない、ということです。自分の考えをはっきり言う一方で、その言葉が相手にどう受け取られるかまでは引き受けられなかったり、困ったときには急に大人に判断を委ねたりする。自分を肯定することと、他者とともに生きるために自分を調整することの間を、行ったり来たりしているんですね。

たとえば中学生って、ふだんは大人っぽくふるまっていても、困るとすぐ子どもに戻ったりします。彼らは、まだ大人の側に完全には入っていないからこそ、大人の理不尽さや、「良識」として押しつけられているものに対して、根本的なツッコミを入れることができる。それは、この年代ならではの強さです。高校生になると、そういった揺らぎが少なくなって、社会への適応が板について、生真面目になっちゃうんですよね。

大人と子どもの間を行き来できるからこそ、持てる視点や表明できる意見があるということでしょうか。

数年前、哲学者の國分功一郎さんと一緒に、中学生から大学院生までの学生を集めて哲学カフェをおこなったのですが、そのときも圧倒的におもしろかったのは中学生でした。「差別」がテーマだったのですが、中学生からは「そもそも差別はいけないって、どっからきたんですか?」と質問が飛んできたりするんです。そもそもの前提を疑う力があるというか、真面目にその課題に向き合おうとする大学生なんかよりもずっと破壊力があっておもしろいんですよね。

社会の規範によって思考が固定化されていないからこそ、根本を疑うようなクリティカルな発想もできるわけですね。鳥羽さんは「人生15歳頂点説」ということも以前おっしゃっていました。15歳頃は、「自分は何者なのか?」「どう生きるべきか?」という問いに対し、アイデンティティの確立と社会的適応の間で揺らぎながらも、強い探究心を持っているが、18歳頃までに社会に合わせて固定化することで可能性を喪失していってしまうと。

15歳頃、つまり中学生っていうのは、子どもの自由さと、大人にならないといけないっていう規範的なものがせめぎ合っているのがおもしろくて。エリク・H・エリクソンの心理社会的発達理論によれば、アイデンティティの確立は18歳前後までに一区切りがつくと説明されることが多い。その意味では、15歳から18歳にかけての変化は、「確立」の反作用として可能性が閉じていく過程ということもできます。

高校生になると、社会規範に合わせ、社会的にふるまうことができるようになりますが、逆にそれができないと「ダサい」になっていく。そして、中学生時代の自分をバカにする子が増えるんです。その象徴が「中二病」という言葉ですよね。

私は、中二病は子どもたちの現象ではなく、社会の現象だと思ってみています。社会がそうした建て付けを欲しがっているからこそ、揶揄するような表現に転換されてしまう。だからこそ、それを問い直す意味でも「人生15歳頂点説」と言っていたんです。でも、今回の調査結果を見ると、今の子どもたちのピークは15歳よりも早くなっているのかもしれないという気がしますね。それこそできるだけ早く社会に適応し、最適化されていく子どもたちという姿が見えました。

現代最強の価値観=やさしさ

もう一つお聞きしたいと思っているのが、「やさしい」というキーワードについてです。「いまの自分」「なりたい自分」についての質問に対して、「やさしい」「思いやりがある」という回答がともにトップ2となりました。特に、「なりたい自分」についての質問では、「やさしい」「思いやりがある」と回答した子どもがいずれも90%を超えていました。ご著書の『それがやさしさじゃ困る』でも「やさしさ」について語られていますが、子どもたちがいう「やさしい」について、鳥羽さんはどのようにお考えでしょうか。

今の社会において「やさしい」は最も強い価値観ですよね。「やさしい」ということ以上の価値観が見当たらない。ただ、今の子どもたちにとっての「やさしさ」は、ある種の弱さともつながっている気がしています。

とにかくフラットな付き合い、摩擦が起きない付き合いを求めていて、声を荒らげたり喧嘩したりすることを嫌う子がとても多い。高圧的な指導をする先生がいたりすると、自分が怒られたわけでなくても学校に行けなくなる子も少なくありません。そういう意味では、子どもたちにとって「安心」というものがとても重要になってきているんでしょうね。

安心を得るために、「やさしさ」に価値を感じているということでしょうか。

お互いがやさしく振る舞えば、安心できる関係がつくれると思っているところはあるでしょうね。ただ、その場合のやさしさは、相手を深く理解しようとすることよりも、単に、相手の領域に踏み込まずに、リスクのない関係性を持続させることに関心が向けられています。

若い世代と接していると、「初めから他人に期待していない」とか、「そもそも他人にあまり興味がない」といった、少し冷めた感覚を感じます。互いに踏み込まなければ、衝突は避けられます。でもそのぶん、意見や感情をぶつけながら関係を擦り合わせていく機会も失われる。安心は保たれるけれど、結果として関係が希薄になっていく面はあると思います。

その意味では、同世代との関わりにおいても「雑味」は減っていて、 活発で友だちが多い子でも、一番の友だちはゲームの向こうの人と言ったりすることも多くてびっくりします。身体的なつながりがないからこそ、逆に安心するというところもあるのかもしれません。

踏み込むことで、一時的に傷ついたとしても、何かしら関係性が深まることは必ずあるはずです。最初から踏み込まなければ、傷つかない代わりに、関係性を味わうことはできない。学校でも、問題が起きないようにあえて踏み込まない指導が増えていて、そうした関係性は親子の間にさえ広がっているように思います。

異質なものと距離をとり、摩擦が起こらないようにするというのは、第三者的な大人の不在や、子どもに対して両親の意見が統一されている状態など、前編での「雑味」のお話ともつながるように思います。

そうですね。今の若い人たちが、小学生くらいからスマホを持てる環境にあって、つながりすぎていることも背景にあると思います。だから、リアルな人間関係の雑味が逆に耐えられないのでしょう。

ただ、それは「もうすでに耐えてるから」ということでもあると思っています。今の子どもたちって、スマホが一つの感覚機関みたいになっていて、それによって実はもうすでに満身創痍になっているんじゃないかと思います。携帯がピコンと鳴れば体全体が反応するくらいにSNSの反応が気になって、熟睡することを忘れたような生活をする子どももいます。

現在、SNSを開けば、大人たちの罵詈雑言や嫉妬、悪意が日常的に流れてきます。つまり今の子どもたちは、身近な大人からは建前を聞かされながら、ネット上では、その建前が剝がれたあとの本音のようなものを、かなり早い段階から見てしまっている。きれいごととむき出しの悪意のあいだをつなぐ説明がないまま、両方を同時に浴びているんですね。これは、ある意味では人生のネタバレだと思います。

本来なら、人間関係のなかで傷ついたり、仲直りしたりしながら、人には矛盾した面があることを少しずつ知っていくはずです。けれどもデジタルネイティブの彼らは、リアルな関係に深く入る以前から、人間の過剰な部分を大量に見せられている。つながりすぎることによって、関係を結ぶ前からすでに傷ついているとも言えます。だからこそ、複雑さや葛藤を引き受けなくても自分を包んでくれる、母性的なやさしさを求めるのかもしれません。

「わからなさ」と向き合う

「やさしい」を出発点に、現代の社会環境や子どもたちがそこから受けているプレッシャーも見えてきました。親や教育関係者はもちろん、そうでない立場の人も含めて大人たちは、子どもとどのように向き合ったらよいでしょうか。

存在の「わからなさ」を尊重することじゃないかなと思っています。私は親子関係についての著作が多いですが、結局、親子関係は人間関係の一つの比喩にすぎません。「相手のことはわからない」という前提で関わることは、相手が他人であっても実の子どもであっても何ら変わりはないはずです。

いくら寄り添っても、相手のことはわからない。わからない同士で、おしゃべりするしかない。その前提に立たないと、関係を見誤ると思っています。そして、それは親子関係では特に間違いやすいんです。

親だから子どものことをわかっている、といった言葉もよく聞かれますね。

発達心理学的に言えば、10歳前後の子どもは、言葉や記号によって世界を整理し、自分自身を調整していく比重が高まる時期にあたります。それ以前の子どもは、たとえばペットボトルに水滴がついているのを見たら、一つひとつの水の粒そのものを見て、それに見入るような存在です。言葉で「ペットボトルの水滴」と考えるというよりは、その現象の不思議そのものと向き合っている。

つまり、彼らは世界と直接関わっている存在なんです。言葉を十分に通さずに世界と直接関わって、それ自体を見る。そういう目をまだ持っている時期だと思うんです。一方で大人は、物事に名前を与えて理解したつもりになり、安心しようとします。だから、言葉で名付けられないものに囲まれた状態になると、不安を感じてしまうんですね。

だから大人も、ときどき子どものような感覚に立ち返りながら、そのあいだを行き来することが必要だと思います。その目を持たないと危ういと思うんです。つまり、ふだん自分が言語によってフィルタリングされた世界しか見ていないことをどこかで自覚していないと、言葉の世界を信じすぎて、世界を見る目が傲慢になってしまう。だから、人との関わり方自体を見誤る可能性もある。

実際のところ、私たちは何もわかっていないのに、図らずも言葉を使ってしまっている。その「わからなさ」に触れる力を子どもは持っています。子どもは「わからないものとして相手を見る」ということを大人に教えてくれる存在だから、本当におもしろいです。


鳥羽和久(とば・かずひさ)

教育者、作家。専門は精神分析。大学院在学中の2002年に福岡市唐人町にて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、150人余りの小中高生の学習指導に携わる。無時間割授業、中学生向けの国語塾・現代川柳会、高校生やフリースクール生向けの哲学対話など、福岡県内の小中高生向けに特色ある授業を開講。著書に『おやときどきこども』(ナナロク社)、『親子の手帖』(鳥影社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)、『「推し」の文化論』(晶文社)、『光る夏 旅をしても僕はそのまま』(晶文社)、『それがやさしさじゃ困る』(赤々舎)など。新聞、Webメディアなどに連載多数。

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